今回は2020年1月1日の補論に続いて、2019年11月19日の記事で発表した拙稿「貯蓄とは何かの補足を行なう(大元の議論の概要は上記2つの記事および論文本体の第Ⅵ節冒頭と文末の部分を参照してほしい)。
 前回の補論は、私の提示した「矛盾」がそもそも存在しないかのようにしらを切る経済学者たちに、矛盾の証拠をつきつけるべく書かれた。一方今回は、S=I(総貯蓄=総投資)という等式が政策実践に影響しうる経済思想の中でどんな役割を演じてしまっていたのか、という問題を──論文や記事の中でも扱ってはいたのだが──少し掘り下げてみたい。

◆ 世の教養人におけるS=I等式の意味とその破綻
◆ ケインズ派も実は金融資産の蓄積を必要とみなしている
◆ 錯覚を補強するだけだった「金融要素の重視」
◆ 経済成長をめぐる間違った形而上学
◆ 資源配分と金融資産

◆ 世の教養人におけるS=I等式の意味とその破綻

 さて前回の補論で暴露したように、経済学者、および経済学的教養のある知識人たちの頭の中では、経済学で定義される「貯蓄」すなわち「所得-消費」が金融資産の蓄積であるという間違った確信が──曖昧な表現がなされていたとしても実際には──染みついてしまっている。だから当然彼らにとってのS=I等式は、そのような金融資産蓄積の総額であるはずの「総貯蓄S」が、実物資産蓄積の社会的総額たる「総投資I」と同じ額だけ発生する現象の表現であらざるを得ない。
 ところが私の上記論文では、「S=I」等式が確かに成立するにもかかわらず、「金融資産蓄積総額=実物資産蓄積総額」等式の方は成立しない、何となれば、そもそも「S」が「金融資産蓄積総額」を表していないからだ、ということが「証明」されてしまった。要するに、人々がわざわざ検証しようともしないほどに信じ込んでいた関係性が崩壊したわけであり、そのことは経済学という学問にとってのみならず、政策とその結果にも甚大な影響を及ぼさざるを得ない。

 なぜなら、総貯蓄Sを「所得から生じる金融資産の蓄積総額」とみなす既存の間違った常識に従った場合、各主体が所得の一部を金融資産の蓄積に振り向ける努力は、個別の事情や意図にかかわらず、マクロ的に見ると実物資産の社会的蓄積たる総投資 I に何らかの「貢献」をしてくれていることになるわけだが、拙稿はそのような「貢献」が全く存在し得ないことを「証明」してしまったからである。
 もっとも多くの読者は、「どうせこれもケインズ派的な新古典派批判でよく見る議論の焼き直しだろう」と感じたに違いない。だが実は私の批判は昔ながらの新古典派批判を繰り返しているのではなく、むしろケインズ派にこそ重大な理論的瑕疵の存在を認めさせて、彼らに認識の転換を迫るものだったのである。


◆ ケインズ派も実は金融資産の蓄積を必要とみなしている

 既存の学派間対立の文脈で、新古典派は投資「資金」を提供する側の非消費的節欲を尊重するものとされた(つまり利子率で調節される自由な資金市場を尊重していた)。それに対してケインズ派は、実物資産の総蓄積が同額の「資金」の蓄積を《結果的にもたらすだけ》だと解釈するので、積極的な節欲は景気を減退させるだけだと主張する。これが読者の慣れ親しんでいるはずのストーリーだ。
 ケインズ派側の議論は「節欲のパラドクス」などと呼ばれており、各ミクロ的主体にとって良いことがマクロ的全体経済にとっては逆効果になる(合成の誤謬)、という認識の広まりと共に、学問上では「マクロ経済学」の、そして政策論的には「積極財政」や「大きな政府」の根拠となった。

 しかしここで次のケインズの叙述を見てみよう。この中でケインズは、公衆の「貯蓄」(もちろん金融資産蓄積や資金提供という意味でケインズが認知しているところの貯蓄)が生産力の拡張に必ず貢献する、と信じていた1930年代当時の常識的見解が、彼の新理論によって修正されるはずだと確信しており、その理由を以下のように解説している。

“ 完全雇用が実現する点までは、資本の成長は低い消費性向にまったく依存するものではなく、逆に、それによって阻止されるのであって、低い消費性向が資本の成長の助けとなるのは完全雇用の状態に限られるからである。その上、経験の示すところによれば、現存の状況においては諸機関による貯蓄や減債基金の形における貯蓄は妥当な大きさを超えており、消費性向を高めるような形での所得再分配政策は資本の成長にとって有利となるであろう。/ケインズ,J.M.(1936)『雇用・利子および貨幣の一般理論』,pp.375-6(372-3). ”

 注目すべきは前半の一文だ。といっても、消費需要の喚起を甚だしく強調する文脈は資源が不十分にしか雇用されない大恐慌を目の当たりにして書かれた『一般理論』らしさの現れであり、そこに問題があるわけではない。問題なのは、逆に完全雇用状態が回復した暁には資本蓄積(投資活動)相応に消費性向を押し下げてでも貯蓄性向を維持しなければならない、とケインズが事実上断言していることである。
 また同様の言及は彼の弟子でポスト・ケインズ派のリーダー格だったJ.ロビンソンの叙述の中にも見られる。

“ ケインズの考え方ははじめ、きわめて衝撃的であると考えられていた。貯蓄は失業を惹き起こすから好ましくないと主張しているように取られたが、それに対して、新古典派は、節倹こそすべての経済的な美徳のうちでもっとも重要なものであると考えていたからである。もちろん、ケインズは、貯蓄が生産能力を増やすために必要であるということを否定したわけではなかった(家計部門が産業の産出物をすべて消費してしまうと、投資は不可能になる)。ケインズが指摘したのは、工場が生産能力一杯操業されず、失業が存在しているときには、貯蓄水準を決めるのは投資決定であって、貯蓄が投資水準を制約するのではない、ということに過ぎなかったのである。/ロビンソン,J.&イートウェル,J.(1973)『現代経済学』,宇沢弘文訳,p.143. ”

 こちらで注目すべきはもちろん後半2つの文であろう。ロビンソンはケインズよりもはっきりと「貯蓄が必要だ」と書いている。そしてそのように「必要」だとされているその「貯蓄」というのはもちろん、所得が《支出されずに》何らかの金融資産の形で保持されようとすることを意味しているのである(なお《消費されずに》と《支出されずに》とがどのように混同されて議論が破綻したのかという点については論文本体の第Ⅲ節を参照のこと)。

 畢竟ケインズ派は、総投資が先行するにしても、結果的にそれと同額の金融資産が社会全体で蓄積される、という認識において、新古典派と異なるところはないのだ。
 だからその枠組に従えば、経済主体が「財を購買する代わりに金融資産を蓄積しようとする」意欲の現象形態である(と彼ら自身によって認知されている)はずの「貯蓄」は──資源の完全雇用という条件下では──集計されたマクロ経済全体で「資源配分」の能動的な制約条件をなさざるを得ない。要は新古典派の誤った「貸付資金説」的信条が、条件付きとはいえケインズ派にも引き継がれてしまったわけである。


◆ 錯覚を補強するだけだった「金融要素の重視」

 私の論文で示された「正解」は次のようになる。
 すなわち、実際の経済では完全雇用か不完全雇用かにかかわらず、ある期間の中で経済主体が「財を購買する代わりに金融資産を蓄積しようとする」期待が現実化すれば、当該主体の安全性は確かに向上する。だが相互に他の主体の販売を抑制する、ということになるので、その期待が全体で一定以上に強くなる場合には、生産資源雇用の水準がどれほど高くても低くても単純に景気が悪化する。金融的要素の景気への影響を見定める真の分水嶺は完全雇用であるか否かにあったわけではないのだ。

 そこで現れるのが端的に「販売-購買」を表す拙稿の「価値余剰」概念である。そして、その社会的総額(事後的には必ず0になる総価値余剰)の事前的期待値がどれだけプラスないしマイナスの値になるのか、を見ない限りは金融と景気との正味の関係性を正しく捉えることはできない。これが拙稿の重要な結論だった。

 結局ケインズでさえ金融資産の蓄積と実物資産の蓄積とのバランスというドグマに縛られて失敗していたということになる。そしてケインズを吸収して同化させようとした新古典派総合の流れにおいても、あるいは新古典派から離れようとしたポスト・ケインズ派の流れにおいても、金融要素を明示化しようとする試みの中で事態はさらに悪化している
 まずは経済学教育の土台として未だに君臨し続けている新古典派総合における、教科書的マクロ理論と金融要素の接合の典型的な説明の仕方を見てみよう。

“ 貯蓄は、所得のうち消費されなかった部分であり、家計によって供給される余剰資金となる。他方、企業が投資を行うときには、資金が必要となる。貯蓄と投資の均等化は、事後的には、企業の必要資金がすべて家計の余剰資金でまかなわれることを示している。家計と企業の行動様式を特定化すると、家計の資金供給と企業の資金需要が特定化される。ここでは、資金供給である家計の貯蓄は国民所得の一次式として、また企業の資金需要は独立投資に等しいものとしている。このとき、企業の資金需要に等しいだけの家計の貯蓄をもたらすように、国民所得の水準が決定されるのである。/このように、生産物市場の均衡の裏では資金市場の均衡が達成されるのである。所得のうち消費されなかった部分が貯蓄であり、他方、生産物のうち消費でないのは投資に回されるからである。/西川俊作(編)(1995)『経済学とファイナンス』,110p. ”

 論文本体第Ⅴ節で行なった私の「証明」を理解した読者であれば、この議論をどれだけ好意的に解釈しても、せいぜい非現実的な特殊想定──論文中の100%家計分配想定──の下でのみ成立するストーリーを無断で普遍化する姑息な論理構成にしかなりえないことが理解できるだろう。
 しかし標準的な金融経済学者たちは、この杜撰な説明でマクロ経済の全体像の理解を片づけてしまった上で、それぞれの「金融論」の世界にそそくさと潜り込んでしまう。もっとも金融市場独自の問題を扱う限り問題は顕在化しないのかもしれない。だが肝心要の景気問題を彼らが扱っても、大元のマクロ構造理解が間違っているのだから、根本治療となるような良い処方箋を示せるわけがないのである。

 一方、貨幣経済のリアルを追求する非主流派ケインジアンの議論の中でも、大元のマクロ構造理解の間違いゆえに次のようなビジョンが妥当なものとして提示されてしまう。

“ 投資と貨幣所得が同じだけ増加したとき、その増加は銀行の貸付によってファイナンスされ、貨幣残高における結果的な増加が事後的貯蓄を構成すると推論できる。/Chick,V.(2000)“ Money and Effective Demand ”,Smithin,J.(編) What is Money? 所収,133p. ”

 表現の仕方や論者ごとの主張の勘所は違っていても、ポスト・ケインズ派とその周辺にいる「反主流派的」経済学者たちの構造理解はこのようなものが比較的多い。
 つまりファイナンスに着目するのは良いとして、「総投資I」の結果として同じ額だけ事後的に現れるもの、と彼らが勘違いしている──つまり本当は存在すらしていない!──貨幣的な内容の「総貯蓄S」の発生の源泉を銀行の信用創造に求めてしまう、という形だ。さらにこの流れで次のような構造認識もよく現れている。

“ 給与所得者たちが財市場で支出しなかった収入は、すなわち彼らの貨幣貯蓄であるが、それには2つの異なった使途がありうる。貯蓄は市場における証券(例えば株式)の購入に使われることもありうる。貯蓄者が、この一番目の貯蓄の仕方を選択するなら、流動性は企業に還ってきて、彼らが負債を銀行に償還する手助けになる。/もし反対に、貨幣貯蓄が流動性の状態で、すなわち銀行預金としてとっておかれるなら、給与所得者は手持ち現金流動性の所持者のままで、企業家達は銀行に対して、相当する量だけの借入者のままである。/Graziani,A.(1991)“La théorie keynésienne de la monnaie et le financement de l’économie ”, Economie Appliquée, Vol.44, pp.25-41,29-30p. ”

 これもファイナンスの継起性や再生産構造を重視する非主流派ケインジアンらしい枠組の提示といえるわけだが、実は主流派ケインジアンや市場主義的な新古典派と全く同じように、証券購入ではなく現金や預金の形で貨幣が退蔵されることに、マクロメカニズムの需要不足的機能不全の主要因を見出してしまっている。
 また、この引用にあるような「給与所得者たち」と「企業家たち」との関係性がそのまま成立するのは、実は先ほど引用した新古典派総合的見解の構造と同じく、所得の100%が「給与所得者たち」に分配された場合だけなのだが、その条件の非現実性が認知されていないこともかなり問題ではある。
 いずれにせよ、「貯蓄」概念ならぬ「価値余剰」概念を用いて正確に解釈すると、より根本的な原因は「財を購買する代わりに金融資産を蓄積しようとする」意欲の全体なのだ。その意欲の一部に過ぎない貨幣蓄蔵の意義を過大評価してしまうと本質を見誤る。「所得の一部で証券を購入して価値を保蔵したり利殖したりしようとする」意欲も、貨幣蓄蔵と同様に結局は需要不足の要因を構成するものでしかないのだから。

 しかしChickにせよGrazianiにせよ、ケインズの真意を汲もうとしていたとは言える。実際『一般理論』等に現れるケインズ自身の構造理解は、「信用創造 → 総投資 → 公衆の金融的蓄積として同じ額だけ生じる総貯蓄 = 同じ額だけ生じる企業部門の負債 → 何らかの償還メカニズム」というものだったと考えてよいであろう。
 例えばケインズは、1930年代当時に流行っていたハイエクやロバートソンの「強制貯蓄論」的議論(≒政府主導の金融緩和的政策に対する懐疑論)への対抗を意図して次のように書いている。分かりやすい文章ではないが引用しておこう。

“ 銀行組織による信用の創造が「真正の貯蓄」の対応しない投資の発生を可能にするという観念〔ロバートソンたちの議論のこと〕は、銀行信用拡張の諸結果の一つだけを切り離して、他のものを排除した結果に過ぎない。もし企業者に対して既存の信用に加えて銀行信用が与えられた結果、企業者がそれがなければ起こらなかったはずの当期の投資への付加をすることができるようになったとすれば、所得は必然的に増加し、しかもその増加額は正常な場合には投資増加額を超過する。ところで公衆は彼らの所得の増加を貯蓄と支出とに分割する割合について「自由選択」を行なうであろう。そして投資を増加するために借入をした企業者の意図が、(それがなければ起こらなかったはずの他の企業者による投資にとって代わるのでない限り)公衆が彼らの貯蓄を増加しようと決意するよりもより急速に実現されるということはありえない。そればかりでなく、この決意から生じる貯蓄は他のすべての貯蓄とまさに同じように真正のものである。人々は、熟慮の結果他の形態の富よりも貨幣をより多く保有することを選好するのでない限り、新しい銀行信用に対応する付加的貨幣を所有することを強いられるということはありえない。しかし、雇用、所得および物価は、新しい水準において誰かが実際に付加的貨幣を所有することになるような仕方で変動せざるを得ない。/ケインズ,J.M.(1936)『雇用・利子および貨幣の一般理論』,pp.83-84(82-83). ”

 畢竟ケインズ派は、資源配分を自由な資金市場任せにする当時の主流派経済思想を良しとしない、つまり政府事業も含めた投資需要振興策を推進する議論の中で、実物資産の蓄積総額がまず先に生じて、それに等しいだけ金融資産の蓄積総額が生じる、というストーリーを補強するために銀行の「信用創造」を安易に利用してしまったのである。

 なおケインズ派であれ非ケインズ派であれ、また実は信用創造を扱うか否かに拘わらず、《企業部門が総投資と同じ額だけ毎期毎期家計部門に対して「負債」を発生させる》のだとすると厄介な問題が生じる。その債権債務額が毎期の《家計部門における所得の非支出》部分に相当する、という平均的な経済学者の素朴な信念に従う限り、実はその部分は《前期に生じた負債に対して返済するためだけの借入》を毎期必ず必要とするような、つまり実質的に償還され得ない累積債務問題を生じさせてしまうからだ。
 この問題には論文本体の第Ⅵ節19ページや2019年12月15日の記事(「均衡財政にこだわると成長の鈍化した経済はどうなるか」の節)でも少し触れたが、根本的な解決には本来、経済成長や景気循環も関わる動学的構造理解を要する。だが現状の標準的な経済学的世界観に囚われている限り、経済学者たちは財市場の均衡を表すS=I等式を見るだけで、債権債務関係の償還も各期ごとに完了してくれているかのように錯覚してしまう──新古典派総合的見解とした上記引用文中の「生産物市場の均衡の裏では資金市場の均衡が達成される」などの認識はまさにその種の錯覚と親和的だ──わけである。

 それにしても奇妙なのは、金融要素を重視するはずのポスト・ケインズ派が、マクロ的分配を論じる際は平気でカレツキモデルを重用したりすることだ。カレツキモデルにおいては、カレツキが参照したマルクスの再生産表式がそうであったように貨幣金融的要素は一切現れない。貸借関係や貨幣蓄蔵などの現象はきれいさっぱり捨象されているのだ。
 つまりマクロ経済モデルとして非貨幣的なものを採用しておきながら、そこへ付け焼刃的に銀行部門による信用創造等の「貨幣・金融的要素」を無理矢理あてがうようなやり方をしてしまう点において、ポスト・ケインズ派でさえも新古典派総合と同様に結局は間違っていたわけである。

 信用創造の実践的な重要性を否定するつもりはないし、ケインズ派全般の提言が不況対策としては結果的に間違っていなかったという事実もある。だが金融と実体経済との関係の本質的構造を捉える点では、新古典派やマルクス派と同じくケインズ系諸派のそれも完全に失敗している。
 「貯蓄」という概念の存在が、信用創造の発生と消滅、ひいては「貨幣一般」の発生と消滅をめぐる問題と、他の経済カテゴリの発生と消滅をめぐる問題との関連を正しく理解することを妨げているのだ。信用創造の意義を過大評価しても混迷はさらに深まるだけであり、問題の全体像を把握するためには拙稿の「価値余剰」概念が絶対に必要となる。

 いずれにせよ、貨幣と金融を重視するというケインズ派全体で、「金融資産の蓄積は実物資産の蓄積と同じ強度で生じる限りは有益ないし無害である」とみなされてしまっていたわけだ。もちろん実際のところは既に述べた通り、「財を購買する代わりに金融資産を蓄積しようとする」意欲はその期待を実現した主体を利するだけで、マクロ経済全体にとってはむしろ無益ないし有害なのである。
 とはいえその失敗したポスト・ケインズ派の潮流の中から金融緩和のみならず国家による積極的な貨幣創造の意義をも正しく認める「MMT(現代貨幣理論)」が発生して今や大いに脚光を浴びている。だがケインズ革命から80年以上も経ってようやく、ということではあって、その上そのMMTも理論的にはまだ不十分な状態にとどまっている。


◆ 経済成長をめぐる間違った形而上学

 S=I等式は経済成長の解釈をめぐる問題にも一定の影を落としている。例えば読者にもおなじみだと思われる次のような議論を見てみよう。

“ 乗数理論の命題式は、限界貯蓄係数sが高ければ高いほど、同額の投資の増加から創りだされる所得の増加はそれだけ小さいことを、われわれに示してくれた。これに対して、均衡成長率決定式から、われわれは、sが高ければ高いほど、均衡成長率はそれだけ高いことを知った。しかしながら、この両者の間には、決して矛盾はない。なぜなら、そのねらいが、落ちこんでいる現在の不況から経済を抜け出させるといった、短期のねらいであるならば、sが高いよりは低い方が、それだけ多くの有効需要を生みだすことになるわけである(まず、短期について配慮がなされなければならないというのが、ケインズのねらいであり、そのねらいを達成するための方策の理論的基盤が、乗数理論を含めてのケインズ理論であったのである)。しかし、そのねらいが、高い均衡成長率の実現におかれる場合には、sが高ければ高いほど、それは資本の蓄積率を高めることになり、それだけ、この目標の達成を容易にすることになるのである。/伊達邦春(1970)『経済はなぜ変動するか』,講談社現代新書,108p. ”

 先ほど2つ引用したケインズの叙述の1番目のもの( “ 完全雇用が実現する点までは...” )がこの議論と関連している。長期的には完全雇用が成立するので高い「貯蓄率」(もちろん貨幣的な内容で理解されているところの貯蓄率)が必要、という理屈とも取れるわけだ。そうだとすると長期間に渡る「不完全雇用均衡」の存在を認めるケインズ的ビジョンとは齟齬をきたすはずだが、あまり気にせずケインズ派もこのような議論を喜んで採用している。

 蓋しこの種の議論は、「状況による理論の使い分け」という知恵深い奥義として学者に好まれるようだが、拙稿の醒めた視点で見れば本当は単なる勘違いの一例でしかない。
 引用文内の「限界貯蓄係数s」が、拙稿における「家計部門の限界非消費性向(1-c)」に相当するものとして(現に標準的な経済学者はそのつもりでいると考えてよい)シミュレートしてみると、実は短期だけでなく長期においてもsの値が低ければ低いほど(つまり家計が消費財を購買すればするほど)、逆説的に有効需要と国民所得の増加はより大きなものとなる。またこれも逆説的だがsの値が低いほど実物資本の蓄積も容易になるのだ。もっとも蓄積の議論では家計部門への分配率が低ければ低いほど、という条件も重要になるのであって、そのことが引用文における「sが高ければ高いほど、均衡成長率はそれだけ高い」という長期成長の認識と関連している(詳細は論文第Ⅴ節の23式を参照)。
 実は経済成長論の「黄金律」の議論も、長期的に家計ないし労働者が所得を全て消費支出してくれる行動様式が(消費を最大にする)望ましい成長状態を伴うと結論している。だがなぜそうなのかを理解するには結局「貯蓄」概念を捨てる(代わりに価値余剰概念を身に付ける)しかない。

 引用文と同主旨の議論はアカデミックな文章でも経済記事でもよく現れているが、実体経済への被害ということを考えた場合、ディレッタント気分をくすぐるこの種の議論が、実は知識人に最大の悪影響を与えているかもしれない。


◆ 資源配分と金融資産

 ケインズ派も新古典派も含めたS=I等式をめぐる常識が実体経済に与えてきた悪影響を要約するなら、「不況時の一時的な消費振興策以外では人々の節欲を促し支出を控えさせることで生産力を増強せよ」、という節制ドクトリンを知識人の頭に焼き付けてしまったこと、だと言えるだろう。
 生産において実物資本蓄積に向けられる資源を確保するという営みと、所得のうちから行なう支出を控えて金融資産を確保するという営みとは、経済主体の日常的実感では確かに同義とも言える。なおかつ件の数式展開(Y=C+I、S=Y-C、だからS=I、あるいは、乗数理論を用いたS=I成立の説明)の簡潔さと逆説性の魅力ゆえにであろうか、「別々の主体が行なっている別々の行為であるのに総額では一致する」というおなじみのストーリーが世界中で説得力を持ち続けてしまったわけだ。

 私の論文が証明した通り、その総額一致は錯覚でしかないのだが(それとは別の総額一致なら生じているが)、まさにその錯覚が、「経済的教養を身に付けた人間ならばそれだけは覚えているようなドグマ」として定着している。
 このドグマは当然、経済理論家と呼ばれる人々を最も強く縛り付けているが、文明観や歴史観を語る人々も経済を語る場合には無縁でいられない。例えば次のような表現が当たり前のように文献上で現れている。

“ 貯蓄は資源を消費から解放する。投資はそれらの資源を使って、資本を生産する。実際社会の立場からは貯蓄と投資は同じコインの両面に過ぎない。/ハイルブローナー,R.&ミルバーグ,W.(2000)『経済社会の興亡』,香内力訳,150p. ”

“ 日本経済が持続的な成長を達成するには巨額の資本が必要だった。まさにその資本を手に入れることができた理由として、一つには「非軍事国」としてアメリカの戦略的な傘の下にあり、防衛支出がきわめて少なかったことがあげられるが、これより大きいのは財政政策と税制によって異例なほど高い貯蓄率を確保し、これを投資に振り向けられたことだろう。/ケネディ,P.(1987), 『大国の興亡 ── 1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争 ── 』, 鈴木主税訳, 1989年, (下) 212p. ”

 二人とも「理論経済学」の専門家ではないが、まさに当の専門家たちが「貯蓄と投資はコインの表と裏の関係」、「貯蓄を投資に振り向ける」云々という表現を使っているわけだから、それに倣って非専門家がこのような表現をすることを責めるわけにもいかないだろう。
 変わったところでいえばこういう例もある。パナマ文書問題で発覚した富裕層の税金逃れと資産の海外逃避を木村太郎が情報番組内で擁護した言説を見てみよう。

“ これは節税にもなってない。要するにこのシステムを使って、日本のものすごい金融が動いてるわけ。その結果が、たとえば生命保険になっていたり、年金にもなっていたりするわけ。何兆円って金が動いてる、投資しないと、日本に置いておいたって一銭にもならない。だから、その過程のなかで使われている仕組みなわけです。だから、これを否定しちゃうと成り立たなくなってしまう。LITERA 2016年5月11日 『グッディ!』木村太郎の「パナマ文書」企業擁護がヒドい  ”

 「お金持ちが財の購買を控えて金融資産を蓄積し有効に運用してくれると社会の役に立つ」という理屈で道義的な問題を不問とするこの「逆張り」は、当然批判も受けている。だが既存の経済理論の常識に則る限りはこの暴論にも一理あるということになってしまう。

 この問題の背後にある本質は何だろうか。
 畢竟、「資本」とだけ呼ばれることもある「金融資産」の意義について、既存のあらゆる経済理論があからさまに間違った理解をしていたということ、そしてその弊害が社会現象の全ての側面で顔を覗かせてきた、ということだ。
 社会は、生産と分配のシステムを効率的に運営するために貨幣を、そしてまた貨幣を含めた多様な金融資産の運用システムを必要とする。しかしその解釈を担う経済学は、「金融資産の蓄積と実物資産の蓄積との総額的対応性」を論じるという完全なミスコンセプションの上に成立してしまった。

 かといって、(当然のことながら)金融資産の存在意義を否定しているということではない。現に個別の金融案件を見れば、外部資金であれ内部留保であれ、資金需要に対する資金供給が存在せねばならないわけだし、それぞれの投資案件において外部資金の提供者の手に渡る「金融資産」が資金利用者の入手する「実物資産」の生産に対して持つ意義は明らかだ。
 だが同時に、そのファイナンスが究極的には販売によって回収されねばならないという現実を見なければならない。確かにミクロ的現場的レベルでは「貸して(出資して)くれないと困る」という切迫した事情が恒に現れている。だがマクロ経済全体の取引関係を見るならば、生産者という部門全体にとって「貸して(出資して)くれるより買ってくれた方が良い」という構造の方がより重要な意味を持って現れてくるのだ。

 実は簡単な思考実験でもこのことはすぐに確認できる。
 端的に「企業部門-家計部門」関係で、企業部門から受け取った賃金等の所得を家計部門が部門としては全額消費支出してくれるような構造的関係を想像してみよう(その場合でも個別の案件で貸借関係等はいくらでも生じうる)。
 すると実はその場合の方が、反対に家計部門が所得の一部を消費支出しないでその残りを企業部門に貸し付けてくれるというような場合と比べて、企業部門全体では当然ながら良い財務状態を維持できるし、それゆえ長期的にも好景気と高い成長率が達成されうるのだ。
 「家計部門が消費支出を抑えて貸してくれないと困る」などということは、企業部門全体としてはむしろ絶対に生じないわけである(論文の第Ⅴ節を参照)。実はこの非常に簡単な身も蓋もない論理的事実を、ほぼ全ての経済学者は(直観ではともかく理論的には)理解できていない。

 以上、S=I等式によって生じているドグマ、つまり「マクロ経済全体で金融資産蓄積が実物資産蓄積の必要条件である」というドグマの実践的有害性を見てきた。
 新古典派的であろうとケインズ派的であろうと、《財の購買を控える》ことでその分だけ何らかの有用な物件を入手できるという考え方が、マクロ的には全く間違いなのだ。そこに気が付きさえすれば、例えば、構造的不況で経済が長期停滞に喘いでいる最中に、「福祉を充実させるべくまずは増税も甘受せねばならない」などと考える必要もなくなる

 ドグマを取り払った上で、金融資産というものの正しい解釈の仕方と、それに基づく政策的処方箋を考えていくに際しては、論文2019年12月15日の記事を参照されたい。
 畢竟、この等式の呪いから解き放たれることは、貨幣と金融資産と資源配分の問題へのアプローチ方法、要するに実は経済学の真髄部分を塗り替えることになる。またこの呪いを乗り越えていくことが、未だ十分な理論的基礎を持ってはいないMMT的政策(私は財政赤字管理主義と呼んでいるが)に堅牢な土台を与えることにもつながるであろう。