この記事の位置付けは本ブログ上で2019年11月19日に公開した拙稿「貯蓄とは何か」の補論ということになるが、まずそもそもどんな話だったのか、概要を確認しておこう。
 扱われているのは文字通りそれは「何」か、という一見すると人畜無害な問題であるが、その結論として導き出されたのは、経済学における「貯蓄」なる概念それ自体の廃棄、というかなり革命的なテーゼであり、またそれに伴って「貯蓄」の穴を埋めるべきある一つの新しい概念(価値余剰
←この概念の使い途についてはこちらの記事を参照)の必然性が提示された。
 このような結論をもたらすに至った経済学的「貯蓄」概念の問題点は、互いに相容れない次のような2つの内容規定が同時に併存するという矛盾の形でまずは現れている。

α) 経済学的貯蓄と経済学的投資は内容的に全く別々の現象である(しかしその総額同士の価値量は一致する/ S = I )

β) 経済学的貯蓄は内容的に経済学的投資を含んだ現象である(そしてその総額同士の価値量は一致する/ S = I )

 より多くの経済学者によって、あるいはより多くの場面で語られているのはαで、同時にβの認識も一定以上現れているわけだが、この2つの規定は相互に矛盾する。しかしほぼ全ての経済学者はそのことに気も留めないまま S = I だけが意味ありげな関係性として語られてきた。
 α(通常の認識)であれば等式は意味を持つが、βの場合には等式の存在意義が完全に失われる。そして厳密に確認してみると、所得-消費という定義から導かれるのはαではなくβの規定でしかありえない。
 つまりマクロ経済学の基本とされている等式の無意味性が明らかにされたのであって、それに代わるべきものとして本当に必要なマクロ的基本等式が拙稿で提示された。

 これが私の論文の概要なのだが、その議論の中では経済学者一般における認識の事例を直接大量に示すことはできなかったので、この記事で補完していく。
 とはいえ予め確認しておいてほしいことは、ほぼ全ての経済学者──新古典派であろうとケインズ派であろうと、あるいはマルクス派やその他の異端派に色分けされている人々であろうと──にとってこの問題はそもそも存在すらしていなかったため、私が行なった問題設定とかみ合う文脈で貯蓄概念が取り扱われていたわけではなかった、という事実である。

 例えば最も新古典派らしい視点によれば、“内容”が何であろうと、「貯蓄」とは利子率・価格体系・予想収益率・その他の条件に応じて、消費による満足との兼ね合いで最大の経済的成果を得られるように──例えば長期的な消費の効用を最大化するように──「資産」の増減、あるいは「資本蓄積」のペースを選択した帰結である。
 そのように抽象度を高めた文脈における新古典派的なマクロ的選択は、消費するか蓄積するかの選択であって、つまり「消費しない」ことを「貯蓄」と呼ぼうが「投資」と呼ぼうがそんなことには関心がない、というのが本音なのだ。
 だからとりわけこのタイプの文脈に浸りきっている人々にとっては、私の提起したような問題設定はそもそも存在の余地すらないということになるであろう。

 それでもαとβは現にそれぞれが経済学文献の中で語られており、自家撞着が発生している。しかし経済学者諸君とこの議論をすると彼らの多くは、

 「貯蓄は単に所得-消費という意味でしかなく経済理論はαともβとも言っていない」だとか、しまいには

 「貯蓄概念の意味など気にしないで S = I はマクロ的均衡の表現だと覚えておけばよい」

 …等々のなげやりな理屈で「経済学」を“擁護”する奇妙な忠誠心を発揮してしまうのだ。よろしい、ではあなたがた経済学者が実際にはどのように述べてきたかを確認してみようじゃないか、というのがこの記事の趣旨である。

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 α(貯蓄と投資は別々の現象である)の事例

 拙稿で引用した岩井克人は次のように書いている。

 貨幣経済の最大の特徴は、セイの法則の破綻である。ロビンソン〔無人島の非貨幣経済から貨幣経済に帰還したクルーソーのこと〕がその中で、財やサービスの販売から得た所得の一部を一般的購買価値の保蔵手段としての貨幣あるいは他の金融資産の保有に向ける行為、すなわち貯蓄は、将来の財やサービスへの有効なる需要、すなわち投資と必ずしも直接に結びつかない。それは単に、現在の時点での需要の減少を意味するだけのものである。したがって、供給は必ずしもそれに等しい需要を作り出さず、経済全体の総需要(有効需要)は必ずしも総供給と一致しない。貨幣経済の中では、総需要と総供給は常に乖離する危険にさらされている。岩井克人(1977,1992)「知識と経済不均衡」,『ヴェニスの商人の資本論』所収, 筑摩書房,236ページ(1992/文庫版). 

 この文章の本来の話題はセイ法則の破綻であり、書いた岩井もこのような議論の中で引用されることなど夢にも思わなかったであろう。しかしもちろんこれは最もわかりやすいαの事例の一つである。

 経済学辞典の記述も見ておこう。

“ 人々が経済活動を行なって得た全所得(国民所得)は、消費と貯蓄とからなり、それらの大きさはいずれも国民所得水準によって決定される。このうち貯蓄は支出ではない。したがってこの部分が有効需要となるためには、貯蓄に等しいだけの投資がなければならないが、投資は所得水準以外の原因によって決定される独立の要因であるから、両者は必ずしも一致しない。この場合社会の活動水準は、貯蓄が投資に等しくなるように、国民所得水準が動くことによって決定される。これが有効需要の原理の中心をなす「投資・貯蓄の所得決定理論」であって、その決定過程における一番重要な要因は投資である。/都留重人(編)(1987)『岩波経済学小辞典(第2版)』, 284ページ;「有効需要」の項目. 

 このようなケインズ経済学の解説的記述を多くの読者は見慣れているであろう。重要なのは当然「貯蓄は支出ではない」等の部分であって、つまりαの典型である。

 平均的教科書の典型的記述も一つ見ておこう。

“ 人びとは所得を得たとき、あとでみるように一部を消費し、残りを貯蓄する。そして、その貯蓄を利付債券や株式などの保有とか貸付けのような形態でおこなうこともあれば、貨幣(すなわち、現金、当座預金、要求払い預金)の保有という形態でおこなうこともある。貯蓄を貸し付けたり、利付債券を購入するために使用すれば、利子を得ることができる。利子は、貯蓄を運用したことの代償として支払われるものである。/豊倉三子雄編(1989)『経済原論入門』,中央経済社, 104ページ. ”

 この記述を見て「投資も貯蓄の一部である」(β)と判断する学生はもちろんいないはずだ。これもαの典型である。

 非常によく読まれた伊東光春の啓蒙書では次のように書かれている。

“ (1)所得=消費+投資/(2)所得=消費+貯蓄/(1)と(2)より投資=貯蓄/ケインズの新しい経済学の登場した時、伝統的な理論のなかで育てられてきた人たちを困惑させたのがこの考えであった。投資をする人間は資本家であり、会社である。貯蓄する人間は、ささやかな市民の場合もある。投資はダムのように山奥に行なわれる場合もあるが、貯蓄は街や村の一隅で行われている。人間的にも場所的にも投資と貯蓄とは一致しない。にもかかわらず、両者が一致するというのはなぜだろうか。これが人々の疑問であった。/これに対して新しい経済学に立つ人は、投資と貯蓄との関係は、ちょうど“プロクラティーズの寝台”のようなものだと説明する。/古代ギリシャの盗賊プロクラティーズは、人をとらえて鉄の寝台に寝かせ、寝台の長さより背が高いとその部分だけ足を切り、逆に短いと寝台の長さまで引き伸したという。この話のように投資に貯蓄が等しくなるまで所得の大きさをのばしたり、縮めたりするのが経済の動きなのだ。というのは、もしも投資の量がふえれば(1)式からわかるように、有効需要がまし、それに応じて所得の量もふえる。ところが所得がふえれば(2)式からわかるように、消費も貯蓄もふえる。両方の式に共通している消費を取り除くと、(1)式の投資がふえると(2)式の貯蓄がそれだけふえるのである。/伊東光晴(1962)『ケインズ──“新しい経済学”の誕生──』,岩波新書,111-112ページ. ”

 この種の記述も見慣れている人が多いであろう。貯蓄と投資が別々のものであることが強調されているから、もちろんこれはαである。

 実はαの例はほかにいくらでもあげることができる。かくしてビジネス書でも素人ブログでもなく権威ある経済学者たちの記述の中で、経済学における貯蓄」の「内容」が「具体的に」語られていることを確認することができた。他方、明確にβの例としてあげられるものの数はあまり多くない。

 β(貯蓄は投資を含んでいる)の事例

 まず上記拙稿でも示した森嶋通夫。

“ 貯蓄はどういう形で行なわれうるかを考えよう。第一にそれは実物の形で行なわれうるが、実物の形で行なわれた貯蓄は投資である。次にそれは貨幣、証券(貸借証文)、株式保有の形で行なわれうる。もし現在手持ちの貨幣より、一層多く貨幣を持とうとするなら、それは貨幣の形での貯蓄である。これに反し、現在手持ちの貨幣を減少させることは、マイナスの貯蓄をしたことになる。同様に証券や株式保有の形で正か負の貯蓄が行なわれる。/森嶋通夫(1994)『思想としての近代経済学』,岩波新書,92ページ. ”

 非常に明確に投資自体が貯蓄の一部だと書かれている。なかなかこれ以上に分かりやすいβの事例は見つからない。しかし森嶋は貯蓄概念を放棄しているわけではない。

 次は森嶋にとっても浅からぬ縁のあるヒックス。

“ 事後の貯蓄は社会の全成員について集計することができる。この総計は週間に生ずるあらゆる人々の財産の貨幣価値の総増分に等しいであろう。さて財産には三つの形態がある、それは有形財(実物資本)から、あるいは証券から、あるいは貨幣から成り立っていよう。しかるに貨幣は、すでに見たように、金のごとく有形財であるか、あるいは銀行券や銀行預金のごとく証券であるか、いずれかである。上記の三つの範疇はかくして二つに帰着する。その上、証券は単にある人(もしくは会社)と他の人(もしくは会社)との間の、様々の種類の債務であるに過ぎない。だからして、すべての財産が集計されるときには、それらは消し合ってしまう。事後の総貯蓄はそれゆえただ物的資本の価値の増分だけに帰着する。そうしてこれが、投資──いうまでもなく事後の投資──と呼ばれているものの意味であるように見える。/事後の貯蓄と事後の投資との均等は、一体として考えられた社会については、かくて必然的に保証されている。しかしこの均等はたんなる自明の理にすぎない──それは経済内のすべての資本財が誰かに所属するというたんなる事実を表明するにすぎない。しかもそのことは大して深い理論的意義を有する論点ではないのである。/J.R.ヒックス(1946)『価値と資本』(第2版)(文庫版/上),安井琢磨・熊谷尚夫訳,1995年,岩波文庫,321-322ページ.原著,p.182. ”

 ヒックスは、事後値同士の比較は事前値同士の比較に比べれば意義が乏しい、という指摘のみに意味を見出させるべく読者を誘導している。しかし本当に重要なのはそこではなくて内容がβであるということなのだ。いずれにせよヒックスも貯蓄概念を放棄しているわけではないし、実は別の場所でαとみなしうる記述も行なっている。

 上記2つの例はあからさまにβを示しているが、これ以外は文言からの内容の断定をしにくいものが多い。そこで次にαとβの混交したケースや、内容的定義をうまくすり抜けてしまうような厄介な言説を紹介しよう。

 内容理解に混乱や欺瞞が現れている事例

 サムエルソンの次の記述を見てみよう。

“ 貯蓄および投資の活動についてもっとも重要なことを一点だけあげよというなら、それは、〔▲1〕われわれの産業社会では、この二つの活動が通常別々の人により異なる理由で行なわれるという事実であるだろう。/この点は常にそうであったわけではない。〔▲2〕今日でも、農民が種を播いたり作物を穫り入れたりするかわりに用地の排水のために時間を割くときには、彼は貯蓄をしていると同時に投資をしているわけだ。彼が「貯蓄をしている」というのは、将来の消費を多くするために現在の消費を控えているからであって、この場合彼の貯蓄の大いさは、彼の実質的な純所得と彼の消費との差額でもってあらわされる。しかし彼は「投資もしている」というのは、彼は自分の農場の生産を改良するという意味で、純資本形成を企てているからにほかならない。/素朴な農民にとっては、貯蓄と投資とが同じことであるだけでなく、両者を企てる彼の理由も同一である。…/…近代のわれわれの経済では、…株式会社なり小企業なりが大きな投資機会に恵まれたときには、その所有者は収益のかなりの部分を事業に再投資する気になる。したがって、相当程度まで、事業の投資が直接に事業の貯蓄の動機になるといってよい。/とは言うものの、〔▲3〕貯蓄は主としては、まったく別のグループすなわち個人や家族や家計によって行なわれるのだ。…/個人の貯蓄動機が何であれ、それはふつうは社会ないし産業界の投資機会とほとんど何の関係も持っていない。/サムエルソン(1970)『経済学』,第8版,都留重人訳,(上巻)328-9ページ. ”

 〔▲1〕や〔▲3〕はαの表明に見える。だが〔▲2〕から後の部分でβも表明してしまう。とはいえ教科書を読んだ学生たちは〔▲3〕のような、「貯蓄主体と投資主体とは分離する傾向がある」というタイプの誘導的な文言にごまかされて矛盾に気が付かない。
 しかし厳密に論理的に考えてみると、ある一つの行動で「貯蓄をしていると同時に投資もしている」主体が存在する、という形で内容を(β的に)規定してしまった以上、「主に貯蓄だけをする主体と主に投資だけをする主体」との分離を(α的に)指摘したところで、結局それは前者、つまりβの規定の上に立っていることになる。
 そうはいってもサムエルソンという人は、「貯蓄と投資という貨幣的な力の相互作用によって決定される支出合計額の水準の問題」(同書327ページ)にマクロ経済学の重要ポイントがある、と述べるほどに「総貯蓄Sと総投資Iの比較」というαに基づくアイデアを重用しているのである。つまりβ的解釈の余地を残すことが肝心の貯蓄概念自体を無意味化してしまう事実には気付いていなかった、ということであろう。要するにかの大秀才も無自覚の自家撞着を起こしていたのだ。

 次は入門的教科書の用語説明における「貯蓄」の項目。

“ 貯蓄;所得から消費を引いた残り。マクロ経済学の学習上は、おカネを貯金するイメージを持ってはならず、生産された財から消費した分を除いた残りの財をイメージする方がわかりやすい。/松尾匡(1999)『標準マクロ経済学』,中央経済社,196ページ. ”

 「ストックとフローを区別せよ」、というおなじみの警句のようにも見えるがそれとはまた違っており、事実上この文言から伝わるのは、「内容のことは考えずにY-Cという定義だけ覚えておけばいいのだ」というメッセージでしかない。無内容だと思っているのなら、私のように概念自体を批判し廃棄するというところまでいかないのはなぜだろうか。

 ジョーン・ロビンソンは次のような書き方をする。

“ ケインズは蓄積の2つの側面をはっきりと区別する。すなわち、消費を控える面である貯蓄と、生産的資本の元本を増やす面である投資とを区別するのだ。マルクスにおいて資本家は、投資することを望むから自動的に貯蓄するのであり、それは、より多くの労働者を雇ってより多くの利潤を得んがためにより多くの生産手段を手に入れようとするからである。マーシャルにおいては資本家は、貯蓄することを望むから、つまりより多くの富を所有しようと欲するから、自動的に投資すると考えられている。ケインズは、資本主義の進んだ経済では蓄積のこの2つの面が自動的に結びついていないという点を指摘する。/ジョーン・ロビンソン(1956)『マルクス主義経済学の検討』,都留重人,伊東光晴訳,紀伊国屋書店,4ページ. ”

 「うまい言い回し」のオンパレードだが、文脈に慣れた人間からすれば言いたいこと自体はすぐにわかる。そしてロビンソンの実際の貯蓄認識はまず間違いなくαなのだが、先ほどいくつか示したあからさまなαの事例のような「内容」に踏み込む記述をしていない点に注意してほしい。
このタイプの文章を書く人々に向かって、あなたの認識は結局αなのかβなのかと尋ねても、また「うまい言い回し」で逃げてしまう、ということを私は経験上知っている。

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 以上、あからさまにαの事例、あからさまにβの事例、混乱している事例、ごまかしている事例、などを見てきた。所得や消費や貯蓄や投資というのは経済学の基本中の基本だとされているのに、その基本概念の中にこれほどの破綻が現れていることを読者は認識せねばならない。
 混乱の根底にあったものは、「事前vs事後」の話でも「新古典派vsケインズ派」の話でもなく、また「価格伸縮性vs価格硬直性」の話でも「長期vs短期」の話でも「動学vs静学」の話でもなかったわけで、それ以前の構造的レベルにおける認識の致命的な錯覚だった。そして明らかになったのは、αは間違いであり正解はβだったという事実だ。

 これはどんな経済学者にとっても、トリヴィアルなものとして忘れ去ることが許されないタイプの話である。貯蓄概念自体がいわば崩壊したわけで、正味のところαだと思い込んでいた経済学は「貨幣経済」を語る資格を失ったのだ。
 もちろんこれから必要になるのは、貨幣経済の正しい構造把握に基づく正しい経済政策はどうあるべきか、という議論になるわけだが、経済学者にとっては、経済学がなぜこれほど大きな瑕疵に気が付かなかったのか、という反省的課題も実りの多いテーマにはなるであろう。