私は十年ほど前から、財政赤字はそれ自体としては経済問題ではないので必要に応じていくらでも出せばよい、という現代貨幣理論(MMT)的見地に立っていた。MMTは私のような根無し草と違ってその出自をポスト・ケインジアンや古くは銀行学派など由緒ある異端派の流れに遡れるわけだが、そのようなメジャーな潮流から自分と同じ主張をする人々が台頭してきたことに、最近それを知った情報弱者の私は正直驚きを隠せなかったし〔註〕、また素直に喜んでもいる。
 しかし今までの記事(2019年11月13日,12月15日)でも論じてきたような財政赤字管理主義(≒MMT)に対しては、ケインジアンを含めた大多数の経済学者たちから根強い不信の目が向けられている。そのことの原因を見極め尽くすことは今の私にとってやや手に余るのだが、財政赤字を戦略変数として使う方針に真面目な多くの人々が心理的抵抗を抱く背景には一定の頑固なイメージが影響していると考えられる。そうだとしても当然それは件の不信感の原因の一部に過ぎないであろうが、その「イメージ」のことを短く論じてみたい。

〔註〕ポスト・ケインジアンが貨幣経済の現実を重視してきたとはいっても、例えばその教祖的な存在であるJ.ロビンソンやN.カルドア等の分析で中心を占めるのは、マルクスの再生産表式と同じく金融資産の蓄積のことなど全く考えていないモデルでしかない。私の場合はそもそもケインズの議論の重要な基礎構造に間違いを見出しているということもあって、ポスト・ケインジアンとの付き合いもかなり長い割には、あまり彼らに期待してはいなかった。

 さてどんな心理的抵抗があるだろうか。思うに自らがビジネスマンである人々や、あるいはビジネスマンの重要性を称揚する立場にある経済学者たちは、ミクロ的視点から見た付加価値、つまり各企業の現場で実際に様々な創意・工夫・努力の成果としてビジネスにもたらされる付加価値について、特にそのうちの収益部分について、マクロ構造的に源泉を辿ると結局は政府の貨幣挿入に帰着する、などという理屈だけは絶対に認めたくない。利潤も労賃も利子も、創意・工夫・努力の直接的な結晶であるべきなのだ(地代についてそれをイメージする人は稀であろうが)。
 かくて彼らは、設備資本であれ人的資本であれ、ありありとした実体的機能を伴って現れる「実物資本」がもたらす収益、という発想に対して好意的になる。その点、新古典派もマルクス派も、また実はケインズ派も、同じ穴のムジナだ(マルクス派の場合は実物資本の収益を労働の収益に帰着させるという違いがあるにしても)。経済学が利子率の議論に労力の多くを費やし、畢竟「自然利子率」、およびそれに近い利子率概念を好むのは、自然利子率というアイデアに現れている実物的収益概念を重心に据えることによって、経済的価値の源泉をビジネスマン的な(あるいは労働者による)創意・工夫・努力の中で説明し切ってしまいたい、というビジネスマン自身や学者の潜在的願望の現われとみることができる。
 財政赤字管理の経済政策論はそのような彼らの自然的秩序信仰に水を差すことになる。そしてリチャード・クーのバランスシート不況論であれMMTであれ、積極的な財政出動に一時的手段として以上の効能を見出しうるような政策思想に対しては常に強烈な敵意が殺到する。経済学が他の人文・社会科学系の学問とは違う高みに屹立しているという感覚を守るためにも、経済学者の自然的秩序信仰は今後も手を変え品を変え現れて、我々の最大の脅威となるのかもしれない。