経済学者たちはその草創期から、真に「有用(useful)なもの」が「無駄(useless)なもの」によって阻害されずに生み出されることがもたらす国家の繁栄を求めていた。だから経済学は現在まで一貫して、有用なものを生産する産業従事者を尊重するイデオロギーの表象だった。

 有用なものの生産は生産的労働と呼ばれ、生産対象の弁別が当初は重要視された。その典型例がもちろんケネーらフィジオクラットによる農業生産労働の重視であるが、当時のフランスの時論に沿い過ぎたその論理(それは先進的なエコロジーではあった)が支配的になることはなかった。
 次にアダム・スミス以来の古典派によって生産的労働とみなされたのは、産業従事者の生活物資全般を(その原料や設備も含めて)生産する労働である。しかしそれは、生活物資の十分な供給があれば産業従事者が利潤を生むことができる(あるいは利潤の動機付けで物資が十分に供給される)という論理へとつながり、利潤を生む労働を生産的労働と呼ぶ用語法も成立した。

 マルクスに至って、利潤部分を含めた生産物価値の全体を生産するのは、産業従事者といってもその中の労働者なのだから、「有用な存在」は労働者階級だけであり、利潤部分を個人的消費や個人的野望のために取得するだけの(しかもその活動方針の無政府性ゆえに社会的混乱を招く存在としての)資本家階級こそが実は「無駄な存在」なのだ、という発想の転換が生じた。

 一方で新古典派は、有用なものが自然に選ばれ、適切に分配される理想状態としての市場秩序の擁護論となった。選ばれるモノも、選ばれる人間も、市場における効用と不効用のせめぎ合いの中で選ばれる限りは有用で、逆に選ばれないものは無駄、とみなす強固なイデオロギーが生じた。非市場的な調整に対比される市場的調整の効率性が、有用さの基準となったのである。

 いずれにせよ、「有用なもの」が指定されるときには、「無駄なもの」も同時に指定されている。そして、有用なもの同士の再生産を超えて、有用なものの一部が無駄なものの再生産を支え、あるいはまた、有用なものの増大が無駄なものの存在の余地をも広げてくれる、という基本観念が、草創期から変わらずに存在してきたとはいえる。
 現代においてそれは、市場に選ばれる有用な営みとしての民間活動が、非生産的で無駄の多い公的活動を支える、という観念の形で広く普及している。それと同時に、効率性の観点からは無駄に見える公的活動が、その活動内容自体の価値(価値判断的価値)のゆえに有用である側面や、一見無駄なものが結局は有用なものの世界を、有効需要の一翼を担うという形で支えているという側面を、(学派を問わず)誰もが無視できなくなっている。

 「有用」と「無駄」の対比に類するものとして、「勤勉」と「怠惰」の対比や、「節約」と「浪費」の対比も、ほぼ同じ文脈で語られる。怠惰に浪費(消費)するより、勤勉に節約的に資本蓄積に努めよ、という資本主義的格言は、無駄を排して有用なものをより多く作り出せ、ということでもあるわけだ。

 蓋し、資本主義を支えるこの種のイデオロギー群が、個別の経済主体の心得や、理想型としての全体主義社会の方針だとすれば、まずまず妥当な格言となるのかもしれない。ところが、“ 常にある程度以上は相互に孤立的で多様な主体たちの複雑なネットワーク ” によって作られている現実の人間社会で、このような「無駄つぶし」のイデオロギーを叫ぶことは、常に危険性をはらんでいる。
 端的には例えば、「無駄な階級を根絶する」という、革命的暴力が現れてしまう。あるいは現代の資本主義社会で、何らかの「無駄」が排除されていくたびに失業と格差の問題が悪化するという現象も、無駄排除指向の危険性が現実化している一例であろう。資本主義を開拓・維持してきたイデオロギーが資本主義自身の破壊や社会的停滞の原動力になってしまうのだ。